昭和13年頃は8学級3百人の生徒がいた。当時の校舎(こうしゃ)は木造で床はところどころ穴が空き、冬は足が冷たかった。
奉安殿(ほうあんでん)(天皇陛下の写真をまつってあるところ)があり、毎朝一回礼をして霜柱(しもばしら)の立つ土の上に立たされ、校長先生の長い訓辞(くんじ)を聞いたもので、とてもきつかった。今考えてみると我々を鍛(きた)えるところだったのだろうと思われる。
当時の農村には耕耘機(こううんき)もなく、牛馬に頼った自給(じきゅう)自足(じそく)で何でも作付(さくつ)けしていた。田植え、稲刈り、甘藷(かんしょ)(サツマイモ)とりなどの農繁期(のうはんき)には休暇(きゅうか)があり、男の子は農作業、女の子は子守をした。毎日のご飯にはアワ、麦、甘藷がたくさん入っていた。毎年1月末には、小作人が地主宅へ年貢米(ねんぐまい)を納める「上納年の祝」があり、家族全員が招待(しょうたい)され、その時だけ白米の飯を食べることができた。
子供の遊びは目玉、メンコ、竹馬、竹とんぼ、水鉄砲、小川の魚捕り等であった。旧12月14日、「四十七士の義士(ぎし)ん伝」があり、子供から大人まで夜学舎(やがくしゃ)に集まり、清水小学校の先生たちの話を夜遅くまで聞いた。眠くなる頃、青年団が落花生(らっかせい)をまいていた。支那(しな)事変(じへん)の南京(なんきん)攻略(こうりゃく)の祝いで旗行列(はたぎょうれつ)があった。
古殿の諏訪(すわ)神社(じんじゃ)の上に学有林(がくゆうりん)があり、毎年3月1日の陸軍(りくぐん)記念日(きねんび)には上級生が山払い、下級生は落ち葉拾いをしていた。
昭和16年に、清水国民(きよみずこくみん)学校と改称された。
男の先生は戦争へ出征(しゅっせい)し、女の先生や旧川辺中学校4年生の代用(だいよう)教員(きょういん)が教えていた。5年生以上の男子は11月の早朝、まだ暗い内から麦を植えるために田んぼの稲株切りをした。
次第に空襲警報(くうしゅうけいほう)が激しくなってくると、各家庭の庭先に防空壕(ぼうくうごう)が掘られた。学校の後の崖(がけ)にも、生徒たちの手で壕を「コの字」型に掘った。鏡の反射で光を入れて、2人ずつ交代制で掘った。ご真影(しんえい)や学籍簿(がくせきぼ)を入れる大切な壕だった。
米は全部供出(きょうしゅつ)し、弁当はカライモ2個だった。家にあるカキ、ナシ、ミカン、ビワ、桑の実が子供たちのおやつだった。
「月月火水木金金」で「勝つまでは欲しがりません」が合い言葉だった。
沖縄からの学童(がくどう)疎開(そかい)の生徒が清水小学校にも2、3人来ていた。また、終戦前は法定(ほうてい)伝染病(でんせんびょう)の赤痢(せきり)が発生して死亡者がでた。
※夜学舎 清水区の集会場