水元どん

 

水元どん

 水元(みずもと)の湧水(ゆうすい)は40メートルの急な崖(がけ)の下から、シラス層で濾過(ろか)され澄(す)みきった水がこんこんとわき出ていて、環境省(かんきょうしょう)(旧環境庁)の「全国名水百選(めいすいひゃくせん)」にも選定されている。どんな干ばつの年でも水量が減ったことがない、水質の良い水である。
 昭和32年(1957年)以前には水道が無く、どの家庭でも水汲(みずく)みは子供の役目と決まっていた。両端(りょうはし)に桶(おけ)をつるした天秤棒(てんびんぼう)を小さな背中に担(かつ)ぎ、何度も休みながら汗だくになって運んだ。風呂(ふろ)を沸かすときは7回も8回も汲まなければならなかった。近所の家が交代で風呂を沸かし、夕方になれば「風呂いけおじゃんせ(風呂に入りにいらっしゃい)」と声がかかる。多いときは7家族35人も集まっていた。母親たちの茶飲み話が夜更(よふ)けまで続き、楽しそうな笑い声が聞こえていた。
 冬の朝、霜柱(しもばしら)の上を素足(すあし)で学校へ通っていたが、湧水は1年中水温が一定なので、冬には温もりのある水元どんの川の中を歩いて行ったものだった。
 夏になると、水元どんの庭には、川辺の街からソーメン流しを楽しむ客が多く訪れていた。
中でも鰺坂(あじさか)南水(なんすい)(鹿児島日報新聞社長)の主催する「水元会(みずもとかい)」が毎年盛会(せいかい)だった。下んすん村の主婦たちが接待の手伝いにかり出されていた。川底にひっかかったソーメンを食べたこと、エビやカニ、ブラメン、腹の赤いナッブショ(イモリ)を採って遊んだことが今では懐かしい思い出である。
 3月1日は乙名(おんな)どん(本家)による伝統行事の「賦射講(ぶしゃこう)」が水元どんであり、子供たちは弓矢を作り、的射を楽しみにしていた。
 お盆の相撲、十五夜の行事は14歳の頭(かした)ニセ(二才)の元で男子のみで行っていた。十五夜の綱つくりは、かんねのカズラ取り、カヤ取りから綱(つな)練(ね)りまで、約1ヶ月をかけ大変であった。小学校1年生の新入生はぶら下がりからつとめ、寝てしまうと足で蹴(け)られて起こされた。十五夜の夕方は、出来上がった綱を土俵(どひょう)に巻き付け、飾り付けをした。
 隣の集落の者から綱を切られないように見張り役を立てて守った。長幼(ちょうよう)の序(じょ)が守られ、上級生は下級生の面倒をよく見、協同の精神力を教えた。
 ※鰺坂南水 松尾城集落の出身で、県会議員をつとめ南水道路を残した。
※ 清水の乙名どん 19戸あった。
※ かんねのカズラ 葛のかずら

​清水地区公民館